Title  梅尾明惠上人伝記 巻上  Author  不明  Description ----  西行法師、常に来りて物語りして云はく、「我が歌を読むは、遙に尋常に異なり。華・郭公・月・雪、都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是れ虚妄なる事、眼に遮り耳に満てり。又読み出す所の言句は、皆是れ真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども、実に月とも思はず、只此の如くして、縁に随ひ、興に随ひ、読み置く処なり。紅虹たなびけば、虚空いろどれるに似たり。白月かがやけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて、種々の風情を色どると雖も、更に蹤跡なし。此の歌、即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては、一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては、秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得る事あり。若しここに至らずして、妄りに此の道を学ばば邪路に入るべし」と云々。さて読みける。   山深く さこそ心の かよふとも     すまで哀は しらんものかは  喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す。 ----  <参考>               平泉 洸  『伝記』には、西行法師が常に来て上人と物語りして、自分の作る歌は、単に花鳥風月を詠むのではなく、皆これ真言なりといったとあるが、これはとうてい正しい史実ではあるまい。  すなわち西行の亡くなったのは、後烏羽天皇の建久元年(1190)二月十六日で、生年七十三歳。これに対して明惠上人は建久元年には十八才であった。『伝記』によれば、上人は文治元年(1185)十三歳の時から十九歳まで、毎日三度、高雄の金堂に入堂し七ヵ年間退転せずとあり、西行のように、将軍頼朝をも問題にしないほどの人物が、十六、七歳の修行者を常に来訪することはあるまいし、特に『伝記』は西行との物語の条に、喜海その座の末にありて聞き及びしと明記してあるが、喜海は上人より五歳の年下である上に、彼が上人の弟子となったのは、建久九年(1198)以後のことであるから、この話の全く信じられないものであることは明瞭である。  しかし『井蛙抄』に西行が高雄に文覚上人を訪ねた逸話が伝わっているように、西行法師も明惠上人も逸話の多い人であったから、訛伝となって『伝記』の中に採用せられたのであろう。そしてその年代は、喜海の没後数十年のことと考えられる。  みょうえ みやうゑ 【明恵】  (1173-1232) 鎌倉初期の僧。紀伊の人。華厳宗の中興の祖。諱(いみな)は高弁。高雄山の文覚に師事し、のち紀伊白上の峰で修行した。後鳥羽上皇から栂尾(とがのお)山を賜り、高山寺を創建して華厳宗興隆の中心道場とした。戒律を重んじ、著書「摧邪輪」で法然を批判。また、宋から将来した茶を栂尾山で栽培した。 大辞林 第二版 明恵 みょうえ 1173‐1232 (承安 3‐貞永 1) 鎌倉前期の華厳宗の学僧。 明慧とも書く。 諱 (いみな) は高弁,青年時代は成弁と称した。 紀伊国有田郡石垣荘吉原村 (現,和歌山県有田郡金屋町) の人。 父は平重国,母は湯浅宗重の第四女。 8 歳のときに母,ついで戦乱で父を失う。 母方の叔父の神護寺上覚に師事し,16 歳のとき出家, 東大寺戒壇院で受戒し,尊勝院弁暁・聖椿⊿について華厳 (けごん)・抑⊿舎 (くしや) を受学, また密教を興然・実尊に,禅を栄西について学んだ。 21 歳ころに神護寺の別院栂尾 (とがのお) 山 (十無尽院) に住し, 東大寺尊勝院に赴いたが,寺僧間の争いをいとい, 23 歳のとき故郷に近い白上 (しらかみ) 峰にこもり, あるいはときに神護寺に帰住するなどして, 《華厳経》関係の仏典の研究をした。  明恵はかねてインド仏跡参拝を計画していたが, 1203 年 (建仁 3)春日明神の神託により断念, 05 年 (元久 2) にも再度渡印の計画を実行に移そうとして《天竺里程書 (印度行程記) 》を作成したが, 急病のため念願を果たせなかった。 06 年 (建永 1) 11 月に後鳥羽院から栂尾の地を賜り, 弟子義林房喜海などを伴って移り,《華厳経》の〈日出先照高山嶺〉より高山寺と称することにした。 まず金堂を造り,運慶・湛慶により釈梼⊿や四天王像などが造られ, その後諸堂が整備された。 金堂の裏山を楞伽 (りようが) 山と名付け, 山中に花宮殿・羅婆坊と称する草庵を設け, 巨石を定心石と名付けてときに寺中より逃れ, 経疏を読み,坐禅入観の場とした。 釈尊の遺跡になぞらえたもので,その旧跡が山中に現存している。 承久の乱のとき,公縁⊿の妻女などをかくまい捕らえられたが, かえって北条泰時の帰依をうける機縁となった。 また公縁⊿の妻女は善妙寺にあって明恵について出家し, 仏道修業の指導をうけ,高山寺尼経といわれる小冊子本の《華厳経》 (40 巻本) が残っている。 釈尊を追慕し名利をいとった高潔な行状は多くの人々から尊崇された。 その中には九条兼実・道家,西園寺公経, 藤原定家や北条泰時,安達景盛らがおり, 笠置寺の貞慶,松尾寺の慶政などとも親交があった。 法然の浄土教に反駁した《催邪輪 (さいじやりん) 》をはじめ, 《華厳唯心義》など《華厳経》に関する著作が多く, 《四座講式》はことに著名である。 若いころからたびたび夢想を受けて〈夢の記〉を伝え, また栄西より茶の実を得て,栂尾に茶を植えていわゆる〈栂尾茶〉を栽培した。 堀池 春峰 『ネットで百科@Home』  End  親本:   梅尾明恵上人伝記 宝永六年刊本  底本:   明惠上人伝記   平泉 洸   講談社学術文庫   1980年11月10日 等 1刷発行   2000年06月16日 等16刷発行   ISBN4-06-158526-6 $Id: myoe.txt,v 1.4 2019/07/09 02:30:53 saigyo Exp $